尊皇攘夷をとなえて、筑波山に蜂起した天狗党と藤田小四郎の悲劇
◇天狗党についての覚え書き
幕末のころに尊皇攘夷をとなえ、天狗党が筑波山に蜂起した。その中心人物が藤田小四郎で、この弘道館に学んでいた。
天狗党の決起時まだ二十三歳、国学者の藤田東湖の妾腹の子で、本家に引き取られ正妻に育てられたのだが、「大根一切れもらうのにも気を遣う」ような生活を経験した。
お茶目な若者で、漫画のような絵を逗留していた筑波の旅館の障子にかいておかみさんに叱られたりもしたそうだ。この公園にも立ち寄り天狗蜂起の策などを練って歩いたりしたのだろうか。
水戸の人間はもっそりしてるように見えて理屈っぽく血の気が多い。そして後先を考えない。損と得があれば損を選ぶ。品川沖に停泊した船内で水戸藩と長州藩が、「成破の盟」というのを結んだという。水戸がまず破壊の役目をする。そののちに長州藩が建設する、とそういった内容のものだったそうだ。
そんな損な役目だれが担うかと思う。けれどそれを悲壮感さえ漂わせながら、やろうとするのがご当地の人々なのである。そんな気質が若いころはイヤでたまらなかった。
ご城下を流れる那珂川は、ひたちなかと水戸の境目では悠々として川幅も広く数キロ先の那珂湊で太平洋に注いでいる。城内の侍や天狗党の者たちが、佐幕派と尊皇攘夷派に別れ、骨肉相争ういくさをしたのはその那珂湊の河口あたりだ。大勢の人間が死に川が赤く血に染まった。満ち潮になると背中を上にした死人がぷかぷか浮きながら川を遡ってきたそうだ。
やがて天狗の一党が一橋慶喜さまに直訴するため京へ向かう、という噂が伝わってきて、近隣の農民たちの中にも鍬を刀にかえてついていくという者まで出る始末だった。行かれては困るので親たちは泣いて息子の身体を柱にゆわえ、子供たちがおもしろがって「てんぐ、てんぐ」と呼ばわるたびあわててその口をふさいで家に連れ帰ったそうな。
知ってる家にも昔、天狗について敦賀まで行った者の家というのがあるが、名誉でも何でもなく家の人には恥ずかしいようなことだったらしい。
およそ千人ほどの中に混じってザワザワと、ちょうど本州の真ん中をタテに流れる川のように二百数十里を歩いて京に向かった。中には女も、年寄りも、身ごもった女もいた。
捕らえられ敦賀に連れて行かれたあと、幕府が天狗一党にした仕打ちは過酷なものだった。脚には一尺二寸の生木の足枷をつけられ、窓を木で打ち付けた暗い鯡蔵に押し込まれた。中央に排泄用の桶が置かれ、一日に握り飯二個とぬるま湯だけがあたえられた。蔵には鯡のにおいが充満していたという。
死罪三百五十三人、その中には六十歳の大将、田村稲之衛門も、筑波で天狗を挙兵させた藤田小四郎も入っていた。
知り合いの家の者は処刑を免れ、かごに乗せられて来たときとはまったく逆のコースをたどって故郷へ帰された。運ばれているうち、何人もの人間がかごの中で息を引き取った。
御城下での牢暮らしのあと、やっと放免になり、戸板に乗せられて故郷の村に戻ってきたときには、長い牢生活で、脚はなえ、久慈川のそばまで来ると、両側から体を支えられながら土手堤を登り、満々とした川の水を見てぽろぽろと涙を流したそうな。
(根本 幸江:日々の思いから)
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